数日前の本ブログのコメント(書き込み)欄を通じ、「ひの様」より「三昧(ざんまい)」への解釈のお問い合わせがありました。いただいたコメントに気付くのが遅れてしまいましたが、一様簡易ながら調べ、そして考えてみました。ご期待に応えられるとも思えませんが、お付き合い下さい。
「三昧(ざんまい)」は、本来は梵語で「サマーディ」。お経では「三摩提」とも記したようです。「心(精神)が統一され、安定した状態(になること)。一つのことに心を専注して無念になること」(広辞苑)、「もろもろの縁を切って静かな定(じょう)に入ること」(新漢和大字典)だそうです。
「梵語(サンスクリット語)」は「言霊(ことだま)が強い」ということで、お釈迦様の教えをそのまま「読経」することが修行や解脱に繋がると信じられ、大乗仏教のお経の殆どはその梵語の音(おん)を漢字に置き換えたわけですが、それが極東の島国にたどり着くころには「サマーディ」は「さむまい(さんまい)」に変化していた、と云う事でしょうか。「ステューパ」が「そとば(卒塔婆)」になったのと同じようなものでしょう。英語にも「パンニャー(知恵/波羅蜜多/ハラミーター)」が「パラマウント」になったと云うケースがあります。
「キモイ」とか「エッチ」とか云う近年の日本語のムチャクチャな語音や語彙の変化に比べれば、、「三昧」の意味や音は「お釈迦様のお言葉(お経)」と「現代の世俗的な使われ方」との間に大きな差異はないとみてよいのではないでしょうか。
ところで、「昧(まい、くらい)」は「光がかすかでよくみえない」「はっきりしないこと」「道理にくらい、物事をしらないこと」」の意だそうです。用いられ方でいえば、曖昧、蒙昧、、。なぜかだんだん、蒙昧三昧、、。
そして考察の流れとして次は当然ながら、「なぜ三か?」とことになります。曖昧ながら次のように思いました。きっと、「昧」を三度通り抜ければ、だれにも口出しされずに自分が係りたい物事に終り無く集中でますよ、ということなのでしょう。ここで云う三度は沢山と云う意味に捉えるのがよいでしょう。一つ・二つ・「三つ以上は沢山」とか、二度ある事は「三度ある(限度が無い)」とか、、。そうやって考えると、用いる場合に隔たりはありますが「三昧」と「極道」や「オタク」には共通するところがありますね。
以上、本考察においては、もう少し時間を下さい。
ところで、「サマータイム」は日本語では「夏時間」。と云うことは「サマーデイ」は二本後では「夏日」ですよね。今日も真夏日(リアルサマーデイ?)でした。
みかんは今日も愛され三昧でした。そして夜、蓼科へワープ。」
■みかんの「三昧肉」ではなくて「三枚肉」
■みかんのひらき?蓼科へワープ(時空を越える)中
●昨日と同じ。只管(ひたすら)玄米粥。
意図ありて玄米粥が続く。でも中身はリッチ。
おやつに、胡瓜、ピーマン、人参