いま流行り(?)の「食育」である 。不勉強かもしれないが、その効果のほどはよくわからない。父さんとしては、何か靴を履いたまま足の裏を掻いているような感じがする。
食育が必要なのは子供だけの事ではない。「自分で物事を考えられる人をオトナと云う。考える姿勢がない人を大衆と言う」とすると、いまこの国は「食」については子供と大衆だらけだ。今この国で「食育」が必要なのは先ずは大人達の方ではないか。今この国の多くの大人達の偏食と味覚の不全は亡国レベルのものだと父さんは思っている。大人が健全な鋭く豊かな味覚で食事を楽しむ国に、子供の偏食・好きなものだけ食い何ぞは起こり得まい。
「ファーストフードはやめましょう」と、あのラテン語に誇りを持つイタリア人たちが英語(米語?)で言っている。味覚がイタリア文化の源泉であり、人々の味覚が麻痺することは「食のクリエイティビティ」の存亡にかかわり、ひいては国のアイデンティティの存亡にもかかわることだと彼等は承知し危惧しているのだ。「食事の時間を楽しむ」と云う事についてはラテン系にはやや及ばないかもしれないが、かつて日本の庶民にはイタリアに勝る食のクリエイティビティがあったはずだ。それを何とか取り戻さなければなるまい。ただし、それは「伝統食」にのみ固執すると云う事ではない。トマトもスパゲティもイタリアでは渡来品だが、今は自分達のオリジナルのようになっている。食のクリエイティビティのなせる技だ。がんばれニッポン、と云いたいが、父さんが見る限り今まともにそれに取り組んでいるのは母さんの「612」他は数えるほどしかいない。
食育の目標は「食欲」と「味覚」の不全を修復することにあると思う。子供の食育にもどれば、偏食なんかしてられない豊かな心と代謝のよい体を育てる事、そして健全でまともな食材の美味しさを感じ取れる味覚体験の機会を数多く提供することしかないと父さんは思う。それには食育以前のこととして心身の健康、つまり体をつかってよく遊ばせる。そして「まともな食べ物」を与え続ける(場合によっては段階的に)。「ろくでもないもの」は家庭でも学校でも外食でも大人が排除する。やがて「好きなもの」の巾・範囲は確実に健全に広がる。あとは美味しく楽しく食べる場づくりだ。そのうち子供自身に、なにが「まともな食べ物」でなにが「ろくでもないもの」かを感じ取る能力がついてくる。「食欲」なんか、知らない間に健全になっている。612にはその実証例が沢山ある。
みかんに「食のクリエイティビティ」はない(多分)。好きなものしか食べない。でもいつも全部きれいに食べてくれる。要は、まともなものしか与えてないから、嫌いなものがないのだ。勿論「体にいいから、、」なんてことを考えて食べたりはしない。父さんの悩みとすれば食欲に限りがないことだ(多分)。でも食べられないものは、ちゃんと嗅ぎ分ける。それがJJルソーが「エミール(途中まで読んで、挫折したが)」で云うところの生命の持つ自然の力であろう。多分無理だが、そのうち「三角食い」もマスターさせたい。
■「あの〜、お腹空いてるんですけど、、」 ■「これは食べられない」ちゃんと嗅ぎ分けるみかん!?
●空豆と雪花菜とルッコラと間引き人参&葉たっぷりのリゾット
空豆、雪花菜、ルッコラ、間引き人参&葉、乾燥蓮根、乾燥まいたけ、ひじき、昆布、カツブシ、田作り、キャベツ、大根&葉、五分つき米、オリーブオイル
※初物の空豆が間引き人参と一緒に届いた。お米や雑穀と一緒に炊いた。
※空豆の旬の香りがみかんの食欲を誘っている。たぶん。