「地域産業(地場産業とは異なる)」と云うものがある。全国津々浦々の庶民の日常生活範囲(単位・規模)で、暮らしに必要なサービスを提供する産業の事を云う。わかり易い例は、お風呂屋さん(銭湯)や床屋さんパーマ屋さん。言葉概念的には保育園・幼稚園や義務教育施設、そして医療機関や行政サービスもそれに入るかもしれない。捉えようでは紙芝居や神社仏閣や、墓地も。資本やビジネスの規模や質が問われるかどうかは不明だが、業種の実態から察して概ねは零細ないし小企業だ。
日用品の加工製造販売業にもそれはある(あった)。かつて洗濯屋やパン屋や燃料屋がそうだった。いずれも、店の裏の作業場で仕事を完結させていた。市場構成・商売形態(売り先との対応関係)で云えば、出前や御用聞きや曵き売りで「鮮度第一の商品」を無駄少なく売って稼ぐ、「魚屋」や「饂飩屋・蕎麦屋」がそうだった。そして「豆腐屋」もその代表格の一つだった。
その昔早朝自転車の荷台に木の水槽を乗せ「ト〜フ〜」と云うラッパを鳴らしながら軒先を売り歩く豆腐屋さんの姿は、近年全くみない。そう云えば「あっさり死んじまえ(アサリ・シジミ〜)」と云う朝の物売り声も聞いていない、、朝飯の洋風化と味噌汁のインスタント化で、「豆腐」より先に殺されちゃったんだね。「豆腐屋」は油揚げと納豆も売っていた(雪花菜は勿論)。
地域産業の商品の多くは、「商品鮮度を長もちさせる(腐らない鮮度商品)技術開発や、物流システムの近代化」とともに、量販とフランチャイズ化を目指す大規模商業資本にとっての「ともかく量産」「一円でも安い、客寄せ目玉広告商品(トイレットペーパーと一緒)」の役割を背負わされ、旧態の地域商店街の「三ちゃん(家族経営)商店」を駆逐して行った。「豆腐」もその代表例だ。ここらで「牛乳」「鶏卵」も仲間に参加してくる。
量産販売が可能となった豆腐は、日本人の日々の慣習的消費材として、スーパーマーケットが主婦客を来店させる「撒き餌」となり、その頃からの日本の豆腐の殆どは「豆腐もどき」になっていった。いみじくも「雪花菜」が日本の食卓から失せて行くのも同じ時期だ。豆腐と雪花菜は双子であっても、料理の技と手間をごまかせる豆腐は「良い子」として日本の食卓で歓迎されつづけた、、たとえ「もどき」であっても。以後、雪花菜は「産業廃棄物」となって行く。今や家畜の餌にもされなくなっている。
安全性や美味さの面において、みかんに「豆腐もどき」や「雪花菜もどき」を食べさせるわけにはいかない。愛があれば、当然の選択だ。でも昨今、そのまともなものの入手は簡単な事ではない。ここ四半世紀は、原料の「大豆」そのものが「大豆もどき」(そしてニガリも)、しかも危ないものなのだ。ここで母さんの舌(胃袋?)と知恵が頼りとなる。
今日はここまで。
■駐車場は地域産業?たぶん都市型産業。■ぴかぴかランドセルの小学生が下校を楽しんでいた。みどりのおばさんのみかん。
●一昨日と同じ。プラスいろいろ
一昨日作った「レバー・・・」の量がちょっと多かったので、今晩と明朝食にもまわった。2食分にはちょっと不足なので、「雪花菜、昆布、ゴマ、田作り」と「カブと人参サラダ」を追加。